飯盛山

会津若松市の中心街からクルマで5分。飯盛山は、同市の北西端に位置している。戊辰戦争の際には、白虎隊が遠く鶴が城を仰ぎながら、集団自決を遂げた場所として、つとに有名だ。山を下りると、幕末維新の資料を多数展示している「白虎隊記念館」がある。また、会津藩の本陣跡である「滝沢本陣」も、ここから徒歩で行ける。

飯盛山は、会津藩の青少年部隊「白虎隊」の自決の地として、観光地化されている。急勾配の階段を避け、動く坂道「スロープコンベア」(有料\250)に乗ると、数分で中腹の霊域に到着。(写真上)そこには、慶応4年の戊辰戦争で、城下に攻め込まれた西軍の攻撃に屈するより、自決を選んだという白虎隊19名の墓碑がある。ローマ市から贈られた白虎隊の武士道を称える碑や、日本を訪れたドイツ人医師の白虎隊鎮魂碑もあり、白虎隊の精神が国際的に知られていることがわかる。また、鶴が城を見下ろす東側の山腹の墓地には、彼らの「自刃の地」慰霊碑(写真下)が祭られている。

霊域から少し下った所には、六角三層の建造物で、螺旋通路により一方通行で上下できるという珍しい建物、「螺堂」(有料\200)が建っている。中には会津藩の道徳教本にある皇朝24孝の絵額が掲げられており、ここでも道徳感の徹底に厳しい会津精神を感じることができる。

螺堂(さざえどう)

 

[白虎隊記念館](参観料\400)

白虎隊記念館は、飯盛山のふもと、参道を挟んでスロープコンベアの反対側に位置している。昭和31年創立のこの記念館は、白虎隊、篭城婦人、娘子軍など会津藩、大鳥圭介や新選組ら会津支援の旧幕軍、総督岩倉具定をはじめとする西軍、それぞれの資料を根気よく集めた戊辰戦争に関する総合資料館だ。資料は、2階建てに所狭しと展示されており、12,000点にも上る。

新選組関連では、土方歳三の鎖帷子状箱近藤勇の鉢がね同じく状箱書簡島田魁の函館新選組袖章などがある。また、近藤勇、土方歳三をはじめ、島田魁中島登らの肖像写真も掲出されている。写真が残っていないので写実性は証明できないが、沖田総司山口次郎(斉藤一)の肖像画も見ることができる。

慶応四年の春、江戸脱走以後の旧幕軍は、北関東での戦闘をへ、「会津決戦」を期して北上した。土方歳三率いる新選組も同様に会津に結集。西軍侵入を防ぐため、土方の負傷のため隊長をつとめた山口次郎が指揮して白河口を防備するなど、京都での風聞に違わない活躍を見せた。ところが、母成峠の戦いで西軍の一斉攻撃を受けて敗走。鶴が城下への侵攻を許してしまった。この時から、白虎隊自決に代表される会津の悲劇が始まる。現代に残された回想録などによると、決戦を前に集結した隊士が、他の旧幕軍や会津藩士の家族同様、鶴が城への入城を拒否されるなど、新選組にとっては歓迎されていない印象があったようだ。

しかし、この白虎隊記念館やその他の会津の史跡を巡る限りでは、現在の史観における「新選組の来援」は、高く評価されていると感じる。

白虎隊記念館から歩いて約5分。会津藩本陣跡「滝沢本陣」がある。猪苗代から侵攻してくる西軍を押さえることができず、藩主松平容保もこの本陣に陣取り迎撃策を練ったと言われている。。土方も参じたが、城下決戦を前に援軍を求めて庄内に向かった。滝沢本陣には西軍の銃撃、砲撃を受けた傷痕が、当時のまま今でも保存されている。これは、西軍に対する深い「感情」の表現であろう。


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by Masato Miura 1997