日新館

 いよいよ特集「会津紀行」の最終回。このツアーの最終ポイントは、会津藩校「日新館」だ。日新館は、江戸時代の全国300諸藩の中でも最大規模といわれた藩の教育機関である。享和3年(1803)に鶴が城の西隣に完成した。以来、慶応4年に戊辰戦争で焼失するまでの間、会津藩士の子供は、10才になると入学が義務づけられ、数々の知識人を生んだ。また、幕末期には、藩の軍制がそれまでの長沼流から西洋式に改められたことに伴い、この藩校を通常16才で卒業した子供達は、若年兵組織である白虎隊に入隊することが定められた。8000坪といわれる敷地に武道場や1500坪の校舎、天文台や日本初のプールと言われる水練水馬池まで備えられた「日新館」は、そのまま道徳感の徹底と高い知識水準を求めた会津の気質そのものだったと言えよう。
 昭和62年に当時のまま完全復元された現代の「日新館」は、会津若松市の中心から国道49号線を北東に約15分走ると、磐越自動車道磐梯河東インターチェンジの手前にある。

[日新館]

 会津藩校「日新館」は、会津の精神文化を語るのに最も適しているといえよう。藩祖保科正之は、無類の学問好きといわれ、同時に幕府に対する忠誠心を最も強く持ち、これを広く浸透させることに尽力した名君と言われている。正之は、作らせた藩の憲法というべき「家訓(かきん)15条」の第一条に、「大君の儀一心大切に忠勤に存ずべく、列国の例を以って自ら処るべからず」と記している。つまり、幕府には絶対的な忠義を尽くし、他藩がどういう施政にでても真似をするな、という意味である。その正之の忠義心と学問への志を体系化し、藩士に徹底するため、学問所である「講所」が作られた。それを基礎としてさらにシステマティックに進化させた教育機関が、5代藩主松平容頌の時代に家老田中玄宰の進言によって計画され、享和3年(1803)に完成した「日新館」である。

 会津藩士の子供は、10才になると「日新館」への入学が義務づけられるが、その以前、6才頃から子供達には藩士としての心得が繰り返し教え込まれた。それが有名な「什の掟」である。いうまでもなく、会津精神の基本だ。

一 年長者の言うことに背いてはなりませぬ
二 年長者にはお辞儀をしなけれはばなりませぬ
三 虚言を言うことはなりませぬ
四 卑怯な振舞をしてはなりませぬ
五 弱い者をいぢめてはなりませぬ
六 戸外で物を食べてはなりませぬ
七 戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ
ならぬことはならぬものです。

 現代の「日新館」は、自刃した白虎隊の19名の少年達をモデルとして、これら会津精神とそれを浸透させるシステムについて詳しく説明している。入館すると、まず歴史と会津精神の概要を解説する映画が見られる。そして、順路にしたがって歩くと、素読書や大学といった教室での勉学の様子がストーリー性をもって紹介されている。最古のプールである水馬水練池、最古の給食など「最古」の文字と、天文学や医学などの高度な専門学を見るだけでも会津教育制度の質の高さ、奥行きの深さを理解することができる。また、馬術、剣術、槍術の稽古場では、山口次郎ら新選組の剣客が、客員として生徒に新選組の剣を披露したことがあるかもしれない(記録にはない)と、空想にふけることができる。ここを卒業したばかりの白虎隊隊士達が、新選組と接触した事実はひとつだけ伝えられている。慶応4年5月27日、彼らが初陣として第10代藩主松平喜徳(容保の子)の警護のため出兵した際、会津南方の福良本陣で、新選組と伝習隊を率いる土方歳三から戊辰戦争の経緯などを聞いたとされていることのみである。

会津藩校日新館 会津若松市郊外河東町高塚山
TEL:0242-75-2525 FAX:0242-75-3215

 この特集を閉じるに当たり、「日新館」を選んだのは、単に取材旅行の最後にたまたまここに寄ったため、というだけではない。今回取材した全ての史跡、そしてそれに対応する事実を回想したとき、必ずそこには日新館の教えともいえる「大君の儀一心大切」と、「ならぬものはならぬもの」という二つの教えの強い情念を感じたからである。京都での新選組の行動、激越を極めた会津戦争も全てこの二つの教えから出発していると考えると、うまく説明がつく。最強の兵と言われた会津藩士全員に、この二つの教えが深く刻まれていたからこそ、絶対劣勢になりながらも篭城を続け、白虎隊は自刃を選び、「なよたけ」の婦人子供達も滅亡の道を選ぶことになったのである。そして、この会津精神と、多摩の風土にあった親幕府思考法は、遠く武田流を汲むという共通項でつながっている。

多摩の人と歴史・特集「会津紀行」 完


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