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天然理心流佐藤道場跡

江戸時代の多摩地区は、幕府直轄領として伊豆韮山の江川氏が支配していた。広大なこの土地を全て監督する事は物理的にも困難なため、宿駅あるいは人里毎に土地の有力者を寄場名主に任命し、管理を任せていた。江戸と甲州、信州を結ぶ大動脈である甲州街道の宿場町であった日野宿および近村を含めた日野本郷三千石は、寄場名主佐藤氏代々が代官と庄屋の中間的役割を果たし、治めていた。幕末の佐藤家当主佐藤彦五郎は、約10年の歳月をかけてその屋敷を全面改築し、文久3年(1863)に完成したのが現在の蕎麦処「日野館」の建物である。敷地面積約700坪、母屋の床面積約100坪という名主屋敷には、天然理心流剣術使いでもあった彦五郎が剣道場を建設し、近藤勇が江戸の試衛館から出張する際や近郷の門人の稽古場として活用していた。道場は、現在駐車場となっている甲州街道に面した一角にあったが、大正15年の大火で類焼してしまった。隣接していた長屋門も焼け落ちてしまったが、現在蕎麦処なっている母屋に通じる門扉はかろうじて焼け残った当時のものである。門扉横には「天然理心流佐藤道場の碑」が建っている。母屋は、佐藤家の住居であると同時に、土間に続く大広間が役人の詰所として使われていた。

蕎麦処の座敷席となっているこの部屋には、彦五郎が受けた天然理心流の切紙が掲げてある。また、彦五郎より9才年少の義弟土方歳三が度々数km離れた石田村から遊びに来ては昼寝をしていった部屋、函館戦争の際死期が近いと覚悟した歳三が近影写真と「使いの者の身の上頼上げ候 義豊」と書いた紙片を託し運ばせた市村鉄之助を3年ほど匿っていた部屋、新選組隊士で「人斬り鍬次郎」と呼ばれた大石鍬次郎が一ツ橋家から浪人して大工をしている時に天井を張った部屋など、新選組にゆかりのある部屋が残っている。

維新後、明治天皇が明治13年、14年に行幸した際、佐藤家に立ち寄って休憩した。その部屋は、現在、彦五郎の4男の彦吉が養子に行った先の有山家(日野市)に移築されている。

天然理心流切紙

これは佐藤彦五郎が受けた天然理心流の進級証明書であるが、近藤勇の上洛後、彦五郎は天然理心流の神文巻物を引継ぎ、宗家代行として多摩地区各地への巡回稽古に励んだ。

天然理心流佐藤道場之碑  
蜀山人の「蕎麦の文」

佐藤彦五郎の時代よりやや溯った文化文政の頃、狂歌で有名な蜀山人(本名:大田直次郎)は、当時幕府の役人であったが、その役向きの関係でよく日野へ出向いた。そして、日野の名主である佐藤彦衛門宅に立ち寄り、泊っていったようである。文化6年3月27日の巡回の時、彦衛門が信州から取り寄せた蕎麦を粉に挽いて、手打ちの蕎麦切にしてご馳走したところ、よほど蜀山人の気に入ったらしく、「61才になる迄、江戸はもちろん諸国の蕎麦を食べて歩いているけれど、これほど白い粉の、これほど見事に打たれた蕎麦を見たことがない。」と言って、その感動のあまりに、「蕎麦の文」という小文を書き上げた。この「蕎麦の文」には、蕎麦の語源と歴史を始め、各地の蕎麦の紹介と、江戸の蕎麦屋の様子などが書いてあり、蜀山人の博識と見聞の広さを物語っている。また今も昔も変わらない蕎麦好きの様子を彷彿とさせる。文章の終わりには、「・・・・ことし日野の本郷に来たりてはじめて蕎麦の妙をしれり・・・・」とほめあげ、次のような蜀山人得意の狂歌でしめくくってある。この時に用いた蕎麦道具と「蕎麦の文」の掛け軸は、佐藤家に保存されている。 

〜日野館パンフレットより

そばのこのから天竺はいざしらず

これ日のもとの日野の本郷


place.gif 日野館

[所在地]日野市本町2-15-9

TEL:0425-84-3824

営業時間:11:30-20:00日休

[最寄駅]JR日野駅より甲州街道を立川方面に戻る。徒歩5分

駐車場有(飲食客専用)


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三浦正人 e-mail : miura@tamahito.com