多摩の人と歴史


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土方歳三資料館所蔵資料
その2

「歳三姿図と座像写真」

「土方歳三姿図」中島登戦友図絵より

武州八王子出身の新選組隊士中島登が維新後、謹慎中に描き残した画集「戦友図絵」にある歳三の姿絵の復刻コピー。オリジナルは水彩カラーで、函館市立博物館に所蔵されている。これには、中島登の筆で以下の解説文が併記されている。

陸軍奉行* 土方歳三 行年三十八歳*
土方は武州八王子*の産にして、近藤に従て京師に在て盡力す。生質英才にて飽迄剛直なりしが、年の長ずるに従い温和にして人の帰する所赤子の母を慕うが如し。退京の后、奥羽に英名を止め、蝦夷島に渡り屡々美名を顕す。明治二年五月十一日、函館尾解の時、数兵を卒て猛虎の群羊を駆て荒走するが如く無二無三に奔巡り、終に乱弾の中に狙撃せられ、馬上ながら討死する。三軍の衆痛惜め、皷聲没す。當世の豪潔と謂う可し。

*印は誤り。正)陸軍奉行並、三十五歳、日野の産。
読み易くするため句読点は筆者が加え、送り仮名をカタカナから平仮名に改めた。

土方歳三座像写真1

土方歳三座像写真2

土方歳三資料館には、歳三の生前の写真が二枚展示されている。いずれも総髪洋装帯刀の写真館撮影写真で、一枚は函館戦争終息直前に歳三の小姓であった市村鉄之助が歳三自身から命を受け、佐藤彦五郎に届けたとされるもの(上写真1)で、市村の歯形がクッキリと残っている。もう一枚は、同日の撮影と思われるが、刀の鞘に手をかけたポーズを取っているもの(同写真2)。撮影時期は、資料館には死の数日前に函館市内で撮影した明治2年の撮影と伝わっているが、京から戻り、甲陽鎮撫隊として甲州に出立する前、慶応4年春に江戸あるいは横浜で撮影したとの説もある。この二説にはそれぞれ解釈があるが、後説は、永倉新八の回顧録から歳三が断髪し洋装に改めた時期を根拠としているが、状況証拠に過ぎず確証とはいえない。また、前説も函館新政府の要人がこの地で数多く肖像写真を撮影しているという事実を根拠にしているが、確かな記録を元にしているわけではない。憂いを含んだ歳三の視線を眺めていると、死地を探して決死の思いを日々募らせている函館新政府陸軍奉行並市中取締役の姿の方がふさわしいと思えてくる。
その3 土方歳三戦死を伝える安富才助書簡を読む

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三浦正人 e-mail : miura@tamahito.com