多摩の人と歴史


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土方歳三資料館所蔵資料
その4

「歳三佩刀和泉守兼定」

和泉守兼定(土方歳三資料館門前に立つ日野市教育委員会説明板より)

会津11代兼定が松平容保に従い上洛し、京都で鍛えたもの。

柾目鍛に五ノ目乱の波紋を焼き、当時の拵がついている。

昭和40年6月9日、日野市指定有形文化財となる。

土方歳三の愛刀が和泉守兼定(いずみのかみかねさだ。長刀)と堀川国広(ほりかわくにひろ。脇差一尺九寸六分)であったことは、広く知られている。司馬遼太郎の「燃えよ剣」では上洛前の江戸で入手したことになっているが、真実は上洛後のようである。会津の名刀匠である11代兼定は、藩主松平容保の上洛に従い、京都で刀を鍛えていた。歳三は、会津藩との関係からこの兼定の作を入手したと想像される。しかし、京都新選組時代に愛用した兼定は、二尺八寸と記録されており、近藤勇が郷里に宛てた手紙の中に歳三の刀に関する記述によってそれがを裏付けられている。文久3年8月の8月18日の政変やその後の三条縄手の古東領左衛門捕縛、翌年の池田屋事変、蛤御門の変の出動の際などには、この二尺八寸兼定を使ったことであろう。文久3年7月12代兼定が上洛し、慶応元年2月まで京で刀を生産していた。歳三の生家である土方歳三資料館に保存されている和泉守兼定は、この12代兼定の作である。二尺三寸一分六厘で、11代作のものより短い。12代が会津に帰国した後の慶応3年2月の作と銘打たれている。この刀が鍛えられた慶応3年2月といえば、新選組は伊東甲子太郎率いる御陵衛士一派の分離に揺れ、その後の鳥羽伏見の戦いへと続く激動の日々を送っていた時期である。歳三が甲陽鎮撫隊として日野宿を訪れた際、この愛刀を生家に残したという説もあるが、もしも慶応3年に12代兼定作の刀を手にしていれば、戦闘の最中であったこの時期に愛刀を手放すとは考えにくい。むしろ、歳三が流山を経て野州で戦った後、足指の負傷のため慶応4年4月に会津に下り治療に専念していた3ヶ月間に、京都時代に顔見知りとなった12代兼定本人と面談し、入手したのではないかと想像する。そして、これも確かな証拠はないが、函館において歳三が散華した後、立川主悦と沢忠助が密かに遺髪や安富才助の書簡とともに持ち出した歳三の遺品の中にこの和泉守兼定があったのではないかという説がある。死の数日前に撮影されたとされる歳三の座像写真には長刀の柄が写っている。現存する12代兼定の柄を見ていると、この刀こそ最後まで歳三の腰間を温めたものに違いないと思えてくる。

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三浦正人 e-mail : miura@tamahito.com