多摩の人と歴史


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土方歳三資料館所蔵資料
その7

石田散薬薬箱と村順帳



石田散薬薬箱

歳三は、少年時代に二度にわたり江戸へ奉公に出されたが、いずれも続かず、問題を起こして多摩に逃げ帰っている。その後、日野宿の名主、佐藤彦五郎宅に出入りし、天然理心流剣術の修行などに励むなどし、青春の日々を過ごしていた。しかし、年齢を重ねるに従い、裕福な家とはいえ、遊んでばかりはいられず、土方家家伝の骨接ぎ、打ち身薬「石田散薬」の出張販売を引き受けるようになった。主に、武州各地と相州、甲州の顧客を訪ね、石田散薬と佐藤家に伝わる虚労散薬(労咳=結核に効能があるという内服薬。晩年、労咳に苦しめられた沖田総司が持薬としていたと伝えられている。)を配給して回っていた。その行商の先々で歳三は、土地の道場に試合を申し出て剣術修行をしていたという。

土方歳三資料館には、歳三が石田散薬、虚労散薬を入れて各地を歩いた薬箱が残されている。背面には土方家の商い上の紋章である「丸に山」のマークが描かれている。土方家の正式な家紋は「三つ巴」であるが、いわゆる商標としてはこちらの「丸に山」を使っていたようだ。薬箱のほか、昭和初期まで生産していた石田散薬の薬丸、原料の牛革草を磨り潰すための薬研(写真手前)、散薬調合のためにと歳三が京都で調達した器類なども保存され、展示されている。

石田散薬説明は、石田寺ページにもあります。



村順帳

また、資料館には石田散薬関係の資料として、歳三の兄隼人が綴った明治16年の石田散薬顧客名簿「村順帳」が残されている。近藤勇の生家がある武州多摩郡大沢村(現三鷹市)や小島鹿之助ややはり土方家と姻戚関係にあった橋本家のある多摩郡小野路をはじめ、現在の八王子、町田、府中、武蔵野など多摩各地、さらに埼玉県の入間や、神奈川県の厚木、遠いところでは山梨県大月、長野県諏訪、千葉県の地名までが記されており、石田散薬の広範囲な販路が明らかにされている。全ての顧客が歳三の時代からのものか否かは証明されないが、多くは江戸時代からのものと想像される。

「村順帳」が収められている石田散薬関係資料集は、通常は展示ケースの中に展示されており、中に綴られた村順帳や官許申請書などは見ることができない。


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三浦正人 e-mail : miura@tamahito.com