多摩の人と歴史


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板橋新選組墓所詳細

近藤勇123回忌記念石版

近藤勇石板と短刀

板橋新選組墓所は、北区滝野川4丁目にある真言宗豊山派寿徳寺の飛び地である。元板橋宿の石山氏所有地であったが、宿場でなくなった無縁仏をまつる墳墓があった事と、近藤勇の終焉の地であることから、明治になって寿徳寺に寄進されたものである。現寿徳寺住職の新井慧誉師は、近藤勇と新選組にゆかりの深い同寺の責任者として、慰霊の行を数々行われている。現在墓所内にある近藤勇石板は、平成2年4月25日に近藤勇の123回忌記念として供養祭を行った時に師が建立した者である。石板の正面には、当時二松学舎大の学生であった橋本美智子さんが描いた近藤勇座像のイラストをもとに刻まれている。また、裏面には、この地で号された近藤勇の戒名「勇生院頭光放運居士」の文字が記されている。この石板と同じものが、板橋駅と王子駅のほぼ中間にある寿徳寺の門前にも置かれている。

この寿徳寺には、近藤勇所蔵と伝えられている短刀が寺宝として保存されている。近藤勇の所有であった事を証明することはできないが、兵庫県姫路市で精肉業を営んでいた山本貴司氏が京都で入手したもので、昭和31年に近藤勇の菩提寺である寿徳寺に寄贈したという。現住職新井慧誉師が、サビの浮いた長さ6寸6分の刃をとぎに出し、柄をあつらえ直して保存している。尚、刀身には「備州長船祐定(びしゅうながふねすけさだ)」の作者名と「永正10年8月日」(1513)の作製日が刻まれている。

永倉新八墓碑

近藤勇埋葬地諸説

作家子母澤寛によると、近藤勇の娘婿である近藤勇五郎の談として、板橋宿馬捨場で斬首された近藤勇の遺骸は、勇五郎らによって掘り起こされ、三鷹の龍源寺に埋葬されたとされている。しかし、その勇五郎の証言では京都伏見街道墨染で狙撃された時の勇の胸の傷痕を目印としたというが、実際にはその個所が間違っているなど、その説にはいささか疑いがある。龍源寺には遺髪がまつられているという説もある。また、板橋の刑地に晒された後火酒漬けで京都三条河原に送られた首級は、新選組縁故者によって奪取され、徳川家康になかりのある愛知県岡崎市の法蔵寺に埋葬されたという説もあるが、これもまた確証に乏しく、首級が確かにその地に到達したかは疑問である。

板橋の地に残る言い伝えでは、近藤勇の遺体は、現在の新選組墓所の下に埋葬されているとしている。こちらの言い分としては、

  1. 処刑後すぐに馬捨て場から現在地に遺体を移動し埋めているため、勇五郎が斬首の瞬間を目撃したとしても、後日埋葬場所を特定し掘り返す事はできない、
  2. 昭和4年に墓所を改修した際、墓碑の下から首のない骨が発掘され、それを骨壷に入れ直して改めて埋葬した、

というものである。状況証拠からするとこちらの方に分があるとも思われるが、改修の際、遺骨とともに発見した物的証拠では、近藤勇の亡骸と断定できるとは言えない。

いずれの説も決定的ではないが、いずれの場所でも近藤勇を偲ぶ慰霊祭が毎年行われている。故人は満足しているに違いない。

慰霊隊士名簿

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三浦正人 e-mail : miura@tamahito.com