多摩の人と歴史


平成9年4月25日

 

平成9年4月25日()午前11時、JR埼京線板橋駅東口前の寿徳寺境外墓地「新選組墓所」において、「近藤勇慰霊祭」が開催された。参加者は、主催の滝野川谷端親交会の会員の方々を中心に、近藤勇の子孫関係者、近藤勇が継承した天然理心流宗家の伝統を現代に引き継いでいる同流剣七世瀧上鐡生氏とお弟子さん、一般の新選組ファンなどおおよそ50名。寿徳寺ご住職の新井慧誉師による鎮魂の読経に続き、参加者全員で般若心経を読んだ。約40分の慰霊の祈りに続いて、新井師は、参加者に向けて以下のようにお話された。

「4月25日は、幕末に徳川幕府の体制を守るために忠義を尽くした新選組の隊長、近藤勇の命日です。慶応4年(のち明治元年と改元)のこの日に、官軍の基地のあった板橋宿に囚われていた近藤勇が斬首され、35歳の人生を終えました。以来、寿徳寺が近藤勇の菩提寺として、毎年供養を続けてきました。特に本年は、彼の死からまるまる129年経過した130回忌にあたります。また、この地に近藤勇、土方歳三の墓と銘打った新選組隊士の慰霊碑を建立するため、各界に働きかけて力を注いだ生き残り新選組幹部の永倉新八こと杉村義衛が他界されてから83回忌を迎えました。土方歳三は、明治二年に亡くなっていますので、来年が130回忌ということになります。この三人とこの碑の両側面に刻まれた新選組隊士全員の霊、そして碑の脇に小さく立つ無縁仏の霊を慰めるのがこの慰霊祭の目的です。今年1月5日に、83回忌を迎えた永倉新八の新しい位牌を作りました。位牌の表には、「釋義潤(しゃく・ぎじゅん)」と永倉新八の戒名を書き、裏面に彼の人生を簡単にまとめた文を記載しました。本日ご参列の皆様にご披露方々、慰霊のお焼香をお願いします。」

お話される新井慧誉師

永倉新八の新位牌、右は近藤勇の位牌

そして、ゲストの2名が紹介された。1名は、北海道札幌市にお住まいの杉村義男氏。永倉新八が明治になって養子入籍した小樽市の医家杉村家の現当主で、新八の孫である。ご挨拶の中で、杉村氏は、「会社を定年退社した10年位前までは毎年この碑をお参りに東京に来ていましたが、寿徳寺様と谷端親交会の皆様が、毎年新選組隊士供養祭をして下さっていること、そして毎日この墓所を奇麗にお掃除し、お花を手向けて頂いていることを知り、是非お礼がしたいと思っていました。最近入院するなど体の調子が芳しくなかったのですが、寿徳寺様のご連絡を頂戴し、昨日北海道から出てまいりました。私の祖父、永倉新八の建てたこの碑を大切にしていただき、心からお礼を申し上げます。最近は毎日祖父の事蹟を研究する毎日を送っております。先日、テレビ朝日の番組で永倉新八が取り上げられました。取材の方が北海道まで見えて、ずいぶんお話をしました。新選組がテレビで取り上げられると、事実が語られているかハラハラしますが、あの「驚き・桃の木・二十世紀」では真実が表現されていました。そして、詳細に新八が語られていました。祖父も喜んでいると思います。」と述べられ、積年の思いを吐露された。そしてもう一人のゲストは、北海道小樽市在住の歴史研究家栗原俊男氏である。杉村氏と連れ立ってこの日慰霊祭に参加した氏は、「二十世紀まで生き続けた最後の新選組幹部永倉新八は、明治になった後、幕府の典医であった松本良順の色紙を持って旧幕臣を回っては新選組隊士慰霊碑建立資金援助をお願いして歩きました。これはとても勇気のいることでした。明治初期には新選組は朝敵として逆賊の汚名を着せられていたからです。しかし、当時の東京府権知事の楠本正隆(元大村藩士)は、永倉の情熱に打たれ、顕彰碑は認められにくいが、鎮魂のための墓碑は結構、とこの碑の建立を許可しました。」と明治9年の碑の建立の背景を語った。

慰霊祭の後、墓所では近藤勇の子孫関係者である原稔氏(国分寺市在住。近藤勇の長兄宮川音五郎の三男軍治の家系)と杉村氏は、永倉の建てた近藤勇の墓碑を背景に、揃って記念撮影のフレームに納まっていた。

左から新井師、栗原氏、杉村氏、原氏、原氏長男


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三浦正人 e-mail : miura@tamahito.com