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おおくにたまじんじゃ

武蔵国府中は、その名の通り、645年の大化改新を契機として武蔵国の国府がおかれ、かつて地方政治、文化の中心として繁栄した。しかし、鎌倉幕府の滅亡と共に衰退。江戸期には、甲州街道の宿場町として昔の賑やかさを取り戻し、多摩地区の商業の中心地として栄えた。現在もその面影が残る商家造りの町並みが残っている。明治4年に大國魂神社と改称されたが、それまでは武蔵総社六社宮と称され、広く武州全般の鎮守の森として人々に親しまれてきた。国司主催の祭礼の系譜を引くとされる5月の例大祭は、「くらやみまつり」 と呼ばれ、今でも多摩地区の祭事のメインイベントとなっている。また、7月の「すもも祭り」は無病息災を祈る祭りで、この時烏(カラス)の絵が書かれた団扇が配られ、これで病を防ぎ秋の収穫期にはイナゴの害を扇ぎ飛ばす事ができると言い伝えられている。境内には、多摩の名士たちの寄進によって嘉永年間に立てられた鼓楼(近隣に時を告げる太鼓を叩いた)や、日露戦役で亡くなった多摩地区出身者の忠魂碑があることからも、この六社宮が多摩の住民の心の拠り所であった事がうかがえる。

撃剣術天然理心流は、多摩の地剣法として江戸幕末期に多くの門人を集め、隆盛していた。天然理心流宗家を継いだ三代近藤周助邦武は、武術上達を祈願し、万延元年(1860)9月30日に武蔵府中六社宮において奉額の行事を催した。拝殿にて太々神楽が奏でられ、拝殿前では木刀と刃を丸めた刃引き剣による型試合が披露された。宗家近藤周助の指導で、既に宗家の養子として島崎勇と改名していた近藤勇や、その頃猛烈に剣術修行を進めていた土方歳三らが、その演武を担当している。この時、奉納された天然理心流の額は、多摩郡谷保村の書家、本田覚庵の筆によって書かれ、周囲を竜の彫刻で飾った見事なものだったという。しかし、慶応4年3月、甲陽鎮撫隊掃討の官軍がここを通過した際、新選組と天然理心流門人の関係詮索を恐れて額は外され隠匿されたため、竜の彫り物だけが残ったと伝えられている。その後の額の所在は知られていない。

奉額奉納の演武から1年、元治元年8月27日、天然理心流三代目近藤周助から養子の島崎勇に宗家跡目を継ぐ四代目襲名披露の野試合が、武蔵総社六社宮の東側広場、現在の東京競馬場近辺にて行われた。以後勇は近藤勇を名乗ることとなる。この野試合は、多摩地区の主立った門人が多数参加した。後に新選組に加盟する土方歳三、沖田総司井上源三郎をはじめ、理心流江戸道場の市ヶ谷試衛館の食客で山南敬助、八王子千人同心井上松五郎(井上源三郎の実兄)や日野宿寄場名主佐藤彦五郎も参加していた。彦五郎とならび理心流の後見人兼財政支援者であった小野路村の小島鹿之助も参加の予定であったが、体調が思わしくなく箱根の温泉場に湯治にいっていたため、欠席であった。源平の合戦になぞらえた紅白試合は、本陣総大将の近藤勇が司令官として、また行司として立ち会いを仕切った。実戦さながらの熱戦の末、彦五郎が率いる白軍に軍配が上がる。襲名披露試合の後、勢いをかった紅白両軍で総勢70名の門人は、府中宿の楼閣を総揚げし、徹夜の狂態に興じたという。この「どんちゃん騒ぎ」は後日批判を受けたと推測され、彦五郎が鹿之助に野試合からその打ち上げの一部始終を書面にて報告したところ、「大切な襲名披露の功業は千百年も語り継がれるべきなのに、誠に口惜しい事。」との一筆を返されてしまった。

redball.gif大國魂神社詳細

place.gif 大國魂神社

[所在地]府中市宮町3-1

[最寄駅]京王線府中駅南口より徒歩にて5分。駐車場有(有料)

くらやみ祭り 5月5日

すもも祭り7月20日


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三浦正人 e-mail : miura@tamahito.com