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(こじましかのすけ・ためまさ)

小島為政、通称:鹿之助、号:韶斎

小野路村寄場名主

天保元年(1829)〜明治33年(1900)
武州多摩郡小野路村(現在の東京都町田市小野路町)生まれ。

 

現在の町田市の最北部で、多摩市と堺を接する小野路村は、武蔵府中から古都鎌倉に至る旧鎌倉街道に面している。小島家は応永年間(1394)に当地に来住し豪農として資産を増やし、徳川中期以降は組頭、あるいは名主として頭角を現わしている。19代当主小島政則は、幕末の天保10年より苗字帯刀を許され、この小野路村を中心に鶴川、平尾、鉄など近郷34ヶ村を管理する寄場名主を勤めている。小島家では、代々の政治力に加え、国学、漢学の造詣が深く、和歌、狂歌、漢籍、書を能くし、剣術、馬術、弓術などの武術も盛んに取り入れ、村人の文武の範たるべしを命としていた。

第20代当主鹿之助は、また学者肌の名主であった。そして、学問と同等以上に武術を好んだ父政則が天然理心流3代近藤周助の門人となり、切り紙と目録を授かっていた影響で、鹿之助18才の時に寄場名主籍を父から継承すると、嘉永元年には19才で同じく近藤周助に入門している。その後、近藤周助の養子となった宮川勝太こと後の近藤勇と面識を持ち、同じく日野宿で寄場名主を務める親戚筋の佐藤彦五郎とも剣術を通じて交流を深める事になる。後に、三国志の故事にならい、この3名は「義兄弟」の契りを交わしている。年齢的には彦五郎が最も年長で、1才年下の鹿之助がこれに続き、勇はさらに5才年下であった。新選組の局長となった近藤勇は、崩壊直前の徳川幕府の京都市中警察隊として鉄壁の組織を作り上げたが、その成立過程でこの二人の影響を強く反映していると思われる部分が多く見られる。統率力、豪胆さは彦五郎から、文芸を重んじ政治力を発揮したのは鹿之助の影響と言える。天然理心流4代となった前後の近藤は、よくこの小野路村へも剣術の出稽古に訪れており、小島屋敷内に設置された道場で、近在の若者に剣技を教えている。と同時に、近藤は鹿之助から漢詩の教授を受けていたという。勤王佐幕という勇の基本姿勢は、鹿之助を通じて学んだ儒教の教えや、水戸学の思想と一致する。

新選組が京都で奮闘している頃、江戸をはじめ武州でも倒幕派の不穏な行動が著しくなり、また、幕府への不信感をつのらせた民衆が各地で一揆を起こす動きを見せていた。一方で幕府の横浜開港により、外国人が上陸するようになったため、野蛮だと迷信されていた西洋人の動きを監視する必要も発生していた。鹿之助は、管理下にあった代官所の要請で、近郷の警備や有事の際に即応すべく、主に小野路村の若者を集めて訓練し、小野路農兵隊を組織した。小島家所有地の山林の一部を整備して調練のための屯所を建築し、同じく日野宿で農兵隊を組織していた佐藤彦五郎や、幕府講武所の師範をしていた山口近江守直邦らの指導を受け、ここで武術稽古と学問に励んだ記録が残っている。慶応3年の大政奉還後、新選組は京を離れ一旦江戸に戻ったが、直ぐに甲府城占拠を目的に、甲陽鎮撫隊として甲州に向かった。この時、鹿之助は隊の後方を支援するため自ら指揮をとって小野路農兵隊を出動させた。名主の家督を長男の守政に譲り、不退転の決意で出陣したが、多摩郡鑓水まで進軍したところで鎮撫隊敗走の報を聞き、兵を解散している。

近藤と土方歳三の殉死を惜しみ、維新後は高幡不動尊の境内に建つ「殉節両雄之碑」の元となった「両雄士伝」を撰し、また供養に努める一方、彼らの残した多くの書簡や遺品を整理し、後世にその事跡を伝承することに尽力している。また、学校制度が発足する以前に「小野郷学」を開設し、四書五経を中心とした儒教教育に専念したり、隣村野津田の思想家である石坂昌孝と義兄弟となり、自由民権運動を支援した。当時の自由民権運動は、薩長土中心に作られた明治新政府の政策に理論という武器で挑んだ民衆闘争であり、多摩の人々にとっては戊辰戦争の延長線上に位置している。

小島鹿之助胸像(小島資料館)


高幡不動「殉節両雄之碑」
小野路「小島資料館」

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三浦正人 e-mail : miura@tamahito.com