tamatitl.gif

(ぶじゅつ・てんねんりしんりゅう)


武術とは本来自分の身を守るために考案された一種の殺法である。自分の身体を守るためには、好むと好まざるとによらず人を殺し、人を傷つけなければならない。このような殺法の流派は、いつ頃起ったのであろうか。時期的には室町時代末期、戦国時代といわれている。すぐれた武芸者が一流派を創始し、系統的にそれらの流派が後継され、さらに分派として分れて発展したのは安土桃山時代を経て江戸時代前期とされている。

武術は所謂武芸十八般といわれ、明時代の中国でこの呼称が言われはじめ江戸時代初め(1610年頃)に我が国に伝わった。この武術の十八種類は、人によって多少異なるが、次の十八の術にまとめることができよう。

剣術・居合術・短刀術・槍術・薙刀術・手裏剣術・鎖鎌術・杖術・棒術・弓術・馬術・柔術・砲術・十手術・捕縄術・三つ道具・忍術・水泳術

徳川幕府の時代となって士農工商身分制度が確立されると、士分以外の者が武術を修行し学ぶことは禁止された。武士は、武芸十八般の修行とともに文学的教養を身につけ文武両道の道をめざすことが要求された。徳川の幕藩体制が確立されると、武術はより細分化され武士階級の内部における家格、家職の確立とともに武術の中に階層性が生まれて来るようになった。武芸十八般を統括し、かつ大人数を軍事的に動かす兵学(軍学)は最上級家臣、弓術・馬術は上層武士、ついで剣術・槍術・砲術・薙刀術は上下を問わず盛んになり、特に剣術は武士の象徴ともいうべき基本武術で重要視された。そして棒術・捕縄術・十手術などは、最下級の武士というような区分が一般に定着した。これらの武術の価値観は、時代の推移とともに変遷があり、幕末期にいたりアメリカ、ロシア、イギリス、フランス等の黒船の来航による海防<国防>問題を契機として砲術・操船<舵>術が重く見られ、弓術・柔術等は次第に下火になった。

江戸時代中期以降、幕末期にかけては剣術の新流派が続々と誕生したが、関東における新流派発生の起因としては、

(イ)関東は天下の中心地たる大消費都市「江戸」の背後にあり、農村の生産力は一般に低く、田沼時代の悪政が農村に浸透し、明和(1764〜1771)、天明(1781〜1788)期の自然大災害が拍車を加えて、農村からのあぶれ者たる無宿人、博徒の横行。

(ロ)関東は幕府のお膝元であり幕府領、天領、旗本領、大名領、寺社領が入りくみ錯綜し、とくに武州を中心として幕府領、旗本領が多くその治政体制は、これらに数名の代官を置き、その支配が一任されていた。一代官で十万石前後の幕府領を統括するということも珍しくなく、それに加えて隣接する旗本領の警察権的な権限も委ねられていた。この地方支配の代官所の人員構成は三十名程度で、従って軍事力<警察力>も弱く、この広大な支配地の中で無宿人、博徒の取締り、犯罪人の逮捕は不可能に近かった。

(ハ)この地方の豪農、名主層は、苗字帯刀の特権を許され、無宿人、博徒から所有の財産を守るための自衛手段として武術を習う必要があったので好んで剣術を習った。

(ニ)また関東は関東武士の発生地でもあり、鎌倉武士の伝統をうけ、農民であっても自ら郷土と称し武士を志向する型の農民が多かった。幕府では文化2年(1805)に農民に武芸稽古の禁止令を出したが、ほとんど形骸化したものとなっていた。

(ホ)幕府は、文政10年(1827)に警察権力支配を強化するために、関東在の農村に改革寄場名主組合を設置して村役人達に協力をもとめた。このため文政10年以降、名主層が剣術を習うことが公然と認められるようになった。

(ヘ)多摩地区八王子周辺の農村に居住し農耕に従事しながら有事に備えて武術の研鑽に励んだ八王子千人同心の存在。

(ト)幕末という不安定な世の中で、国防問題や尊皇攘夷運動で世情が騒然としていたこの時代に農民や町人が剣術を習うことは一つの流行でもあった。これらの種々の理由があり、関東在の農村において剣術を習うことは、事実上ほとんど野放しの状態であった。それゆえに多くの新流派が生まれ、この10年という短い期間に関東に広く分布して、ある地域を中心として新流派が広まっていった。

このような時期に、新流派の一つとして生まれたのが天然理心流である。天然理心流は多摩の田舎剣法、多摩の「イモ」剣法などと呼ぶ軽々しいものではなかった。印可などによっても、立派に完成された剣の体系をもっている総合武術であることがわかる。(K)


初代 近藤内蔵之助
第二代 近藤三助

第三代 近藤周助

第四代 近藤勇

維新後の天然理心流
天然理心流血判神文帳と門人分布
天然理心流試斬会
戸吹 桂福寺

「トップページに戻る」 
三浦正人 e-mail : miura@tamahito.com