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土方歳三生家

土方歳三生家旧屋敷

武蔵国日野石田の富農土方義諄は、その4男歳三が母の胎内にあるときこの世を去った。そしてその母も歳三が6才の時に他界している。そのころ多摩川の氾濫で土蔵の一部を壊した土方家元屋敷は、村人の協力によって現在の土地に移設されている。それ以後は、長男為二郎が盲人のため代わって家督を継いだ次兄義厳の妻によって養育される。武張ったことを好む周囲の多摩人気質も手伝い、歳三は幼い頃から武術に親しんでいたという。生家の庭に矢竹を植え、「吾壮年武人となって名を天下に上げん」と誓ったと伝えられており、その矢竹は現在でも当地に繁殖している。11才の時に上野伊藤松坂屋に丁稚奉公に出されたが、番頭と口論の末、夜を徹して甲州街道を逃げ帰ったこともある。4才年上の姉「のぶ」が日野宿寄場名主である佐藤彦五郎に嫁いでからは、剣法修行に目覚め、義兄のすすめで25才で天然理心流に入門すると、家伝の「石田散薬」の行商をしながら、剣術道具を薬箱にくくりつけて、特に相州方面の剣術道場を訪ねては試合を望んで歩いたという。

歳三の矢竹

歳三の長兄為二郎は、盲人であったが、「目開きであったら畳の上では死ねない」といわれるほど剛胆な人物であった。同時に浄瑠璃や和歌俳句などを楽しむ粋人でもあった。雅号を石翠。歳三が俳句をたしなんだのは有名だが、この道楽兄の影響であったことは疑いない。ある日武蔵府中宿での遊郭遊びからの帰途、多摩川の増水で足止めされそうになった。為二郎は、やおら着物を脱いで丸めると頭に巻いて、濁流の中に飛び込み、スイスイと抜き手をきって石田村の浅川岸まで泳ぎ帰ったという逸話を残している。

三男の末兄大作は、北多摩郡下染谷村(現府中市白糸台)の粕谷仙良の養子となり、医業を営み、のちに良循と改名した。玉洲と称して詩文をよくし、かつ能書家であった。谷保村の親戚本田定年覚庵について書を学んだが、幼い頃は末っ子の歳三の手を引いて、ともに石田村と谷保村を往復したことであろう。京都壬生の新選組屯所の大看板は、この大作兄の作であったとされている。

歳三の次兄喜六義厳が世襲名隼人を名乗り家系を継いだが、若くして亡くなった。現在の土方家は、この喜六の玄孫である佑氏一家が住んでいる。平成2年に区画整理の都合で昔ながらの家屋を立て直す際、門よりの隅に旧屋敷の柱や梁を移植して一室を作り、土方歳三資料館として月一回公開している。

[土方歳三資料館所蔵資料抜粋]
佩刀和泉守兼定(日野市指定有形文化財)
歳三戦死を知らせる新選組隊士安富才助書簡
歳三姿図と座像写真
八月十八日政変に使用した鉢金と送り状
豊玉発句集(歳三の直筆俳句集)
石田散薬売薬箱
新選組隊章(函館新選組肩章) ほか
土方歳三資料館館長 土方陽子氏コメント

「付近の区画整理に合わせて母屋を改築した時に資料館を開館しました。月に一回しか開館できないのですが、開館日には毎回100人くらいの熱心な方がお見えになります。狭くて十分な対応はできませんが、館内の説明なども工夫していきたいと考えています。」
(interviewed on Dec. 15th, 1996)

REDBALL.gif土方歳三資料館館内
REDBALL.gif土方歳三資料館所蔵資料

place.gif 土方歳三資料館

[所在地]日野市石田60

[最寄駅]京王線高幡不動駅下車。徒歩2分の多摩都市モノレール高幡不動駅から上北台方面2分「万願寺駅」下車。徒歩3分。駐車場なし。

開館:毎月第3日曜日 13:00〜16:00

入館料:300円


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三浦正人 e-mail : miura@tamahito.com